ジンタ
 


 

 
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1995年
 初夏、マァブルシィプ・アンド・ザ・ランダウン・サンズ・チルドレン('87〜'94・'99年再結成)の最後のギタリストだった竹内圭、マァブル最後のキーボードを担当するも、ライブに加わる事は無かった宮沢賢二、二人の大学の友人、ドラムの高橋達成の三人が、バンド構想を練る。

 大学にて夜通し飲み明かす毎日の中で、或る日突然、高橋が「バンドをやろう」と云い出したのが切っ掛け。彼は幼い頃からムード音楽に親しみ、其の頃早朝のNHKラジオの高齢者向け歌謡番組を毎日の様に聴いており、其の様な歌謡曲っぽい要素と、当時三人の中で、ソニー・シャーロックやビル・フリゼルが良く聴かれていたので、そう云うロック寄りのフリージャズの要素を合わせた感じで何か出来ないか、と云うのが当初の構想だった。

 今思えば、マァブル活動休止以降、取り立てて何の目標も無く、漫然と遊んで暮らして居た竹内の生活態度を見かねて、高橋が「何とかせねばなるまい」と持ち掛けて呉れた話だった様に思う。

 ベースが決定しない儘数ヶ月過ぎた9月、レコード屋のメンバー募集を見て、ベースの永見が加入。何度かリハーサルをするが、当初の構想は上手くいかず、成果は「達っちゃんの曲」のみ。高橋は大学の卒業・就職を待たずに脱退。此れをもって、高橋は後にジンタのシド・バレットと言われる様になる。

 マァブル時代、スタジオの店員として面識が有った佐藤英司は、テクニックと云い趣味と云い人格と云い、其の頃から一度一緒にバンドをやらねばなるまい、と竹内が勝手に思って居たので、此処ぞばかりに話を持ち掛けるが、生憎多忙にて断られる。落胆。

 仕方無いのでマァブルのドラムだった渡辺靖之(其の後、ジョージィ・パイ、かかし、レニングラード・ブルースマシーンなど渡り歩く)助っ人ドラマーとして迎え、曲作り。次第にオーソドックスな歌謡ロック路線が固まる。

1996年
 2月、初めてのライブ。バンド名はまだ無かった。シルバーエレファントにて、中央大学音楽研究会ウェスタン部の定期演奏会のゲストと云う、内輪ノリの中でのデビュー。ライブ終了の次の日から、此の日の演奏曲目のスタジオレコーディングに入る。

 バンド名がなかなか決まらず。此れではブッキング等にも支障を来たすので、仮の名前として「バンド」を日本語に置き換えて「ジンタ」とし、ブッキングをする事となった。他に良い名前が思い付いたら即変更するつもりだった。

 5月、カセット「第一作品集」発表。

 ひょんな事からドラムに十歳ばかり年上の家庭人、「都市航海」高橋良昌がヘルプ参加。二本目カセット「生きる」発表。音楽界に一石を投じたが、投げ所が悪く、波紋を呼ばず。タイトルは一曲目に収録の「ゴンドラの唄」が主題歌となった黒澤明の映画から。

 一ヶ月に一度のペースで、高円寺ペンギンハウスにてライブ。ライブハウスには無いムードに、バンドの世界観が見事にはまり、ホームグラウンドとなる。

1997年
 2月、佐藤英司に「生きる」を渡す。此の月のライブは高橋良昌氏の都合が付かず、駄目元で佐藤に連絡を取り、ヘルプを頼むと快諾。「生きる」を気に入って呉れたらしく、ライブが終わった時点で其の儘正式メンバーとなる。其れ迄ユニットっぽかったジンタが、此処で初めてバンドとして確立される。

 竹内がマァブルのリーダー、松谷健に呼ばれ、キャプテントリップ・オールスターズに参加。其の時のライブで共演したフリーボの石垣氏に「生きる」を手渡す。此れを切っ掛けに他のバンドとの交流が増える事となった。

 12月、三本目カセット「道」発表。

1998年
 6月、フリーボ石垣氏のプロデュースで、オズディスクよりCD「何処へ帰る」発表。少数乍も物凄く地味に売れ続ける。

1999年
 ひたすらライブ活動。9月に初めてのツアーにて、大阪なんばベアーズでライブ。思わぬ動員に腰を抜かす。

 オズディスクより、ライブ盤のリリースの話を戴く。

2000年
 1月、佐藤が結婚、北海道へ移る事に。悩んだ末、色々な要素を考えるに、彼抜きでバンドを維持する事が困難である事が判り、解散を決意。

 最後にまだ音源として残して居ない曲をまとめてスタジオ録音。

 2月16日、最後のライブ。ジンタだけで88人と云う、ペンギンハウス始まって以来の動員記録を打ち立てて、活動を終える。

 ライブ盤は最後のスタジオ録音と合わせて、ジンタ追悼盤「青天の霹靂」としてリリース。


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